あじまりかんと安心感

あなたは、安心感を、何に求める?

お金?

家族?

会社?

国家?

自分の外側には、安心感はないということに気付いているだろうか?

いくら外側を探しても、安心感は、得られない。

どんな時でも、大元の神、あじまりかんは、あなたの中で、響いている。

あなたの内側にしか、あじまりかんにしか、安心感はないのだ。

そのことに気付こう。

もう、外側に求めないことだ。

 

お金に安心感を求めがちだ。

しかし、それ程お金とは、確実なものだろうか?

お金がなくては、安心感とは生まれないものなのだろうか?

お金は、あじまりかんの采配により、自分にその時必要な分量だけ、過不足なく与えられる。

私はそう思っている。

お金に限らず、全てのものが、ベストなタイミングで、丁度良い分量だけ、与えられるものだ。

そこを信頼してみよう。

あじまりかん、大元の神を信じてみよう。

それは、自分(大元の神、あじまりかんと繋がっている自分ということ)を信じるということでもある。

人間知では、天の計らい(あじまりかんの計らい)というものはわからない。

人知を超えるものだ。

だから大元の神を、あじまりかんを信じるのだ。

私は、あじまりかんを唱えることなのかな、とも思っている。

私もあじまりかんを唱えだして日が浅いが、そんな気がしている。

あじまりかんを唱える効果は、これから身をもって、体験していくことだと思う。

安心感。

神に抱かれているという絶対の安心感。

そこを感じられるようになるか、その点が大事だ。

あじまりかんと、一体になる。

それに尽きるだろう。

それは、あじまりかんを行ずるという、実践の中にしかないのかもしれない。

あじまりかんのことを世に著した斎藤敏一さんは、そういう境地なのかもしれない。

私は、自分をあじまりかんだと思っている。

しかし正直なところ、まだ自分とあじまりかんは、別の何かのようで、一体というところまでは、いってないような気がする。

分裂しているのだ。

私は正直、観念だけ、言葉だけなのだ。

頭では理解しているが、まだ、そのレベル。

あじまりかんを行じていないのだ。

多分、あじまりかんを唱えるという、行をしないと、一体感、絶対の安心感という境地には、達しないと思う。

これは、これからの私の課題だと思う。

私は、自分を大元の神、あじまりかんと繋がる者と認識はしているが、認識どまりなのだ。

これからは、その先に入っていかなければならない。

それがなされないと、多分、弥勒の世、というのも、顕現されないと思う。

我々一人一人があじまりかんで、大元の神の現れであることを認識し、あじまりかんを唱え、この世を弥勒の世にする。

そういう流れではないかと思う。

自分があじまりかんであることを認識できたら、あじまりかんを行ずること。

そこだと思う。

絶対の安心感も、そこにあると思う。

後は、実際にあじまりかんを唱え、行ずることだ。

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